2006年04月20日

書道用具 -筆-

毛筆の材料は、一般的には羊・馬・鹿・タヌキなどの動物の毛が使われますが、
竹や鶏毛を使ったものもあります。材料の種類や混ぜ方で様々な筆ができ、毛の硬さ
によって剛毛、柔毛、兼毛に分けられます。また毛の長さによって、
短鋒、中鋒、長鋒に分けられ、持つ所(筆管)によって号数が決められています。
さらに、店頭で売られている状態の毛の穂先までのりで固められた固筆、と固めないバサバサの
捌筆に分けられます。
どの筆も味わい深い線を書くことができますが、初めての方は 3号の兼毛・中鋒の固筆
が良いでしょう。
posted by ハラ at 23:13| Comment(26) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書に親しむ

小、中学校で学んだ書写は、国語科の言語事項として、文字を正しく整えて書くことが
目標でした。「書道」とは芸術科に属しています。漢字、平仮名、片仮名を素材として
筆者の意図や感動を表現する芸術で、書く人の心情や人間性が文字の上ににじみ出て
独特の味わいを生みます。さまざまな書の美の鑑賞をとおして、書に親しむ心を養い、
自分の個性を生かした創造的な表現を楽しく展開して行きましょう.
posted by ハラ at 23:03| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月15日

書風の変遷

 楷書は隷書を簡略化した書体であるが、最初は隷書の特徴が
かなり残っていました。また、隷書が扁平な形であったから、
楷書も初めは扁平だった。中国の六朝時代、隋時代はほとんどすべてが平たい
形をしていました。
 白鳳時代の初期は、飛鳥時代に続いて鋭角的な六朝式と、温和な
隋式の書風とが支配していましたが、唐の時代に移ると、日本の文化も
唐の影響を受けるようになりました。
唐式書風は、前の扁平な形から次第に長方形に変化してきました。
日本でも縦長の字体が書かれ始めたのは、この白鳳時代からです。
posted by ハラ at 14:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月17日

歴史-仏教と書道-

 仏教が日本に伝えられたのは、西暦538年のこと。天皇は書記に寄れば欽明天皇の御世四年にあたります。やがて聖徳太子(574〜622)が現れ、日本は全く仏教国家のようになりなした。四天王寺のような堂々たる寺院もいくつか建立され、それに伴い経文を書写することも盛んになってきました。
 聖徳太子は日本書道史上でも、きわめて重要な存在です。聖徳太子は法華義琉などの仏教の教義を説いた三教琉表されました。そのうち法華義琉の草稿本四巻が現在残っています。
法華義琉は下書きであるから訂正された箇所がいくつかあるが、誠に立派な書であります。書風は中国の北魏様式で、扁平な字形であり、楷書に中に隷書の筆遣いが多く残っています。
posted by ハラ at 18:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

歴史-日本に文字はなかった-

 日本の大和朝廷が、朝鮮の百済や新羅を従えるほど勢力を持ったのは、第四世紀から第5世紀の始めにかけてでありましたが、その頃阿直岐(あちき)や王仁(わに
が渡来し、日本に大陸の文化を伝えたのであります。それ以後、日本人が漢字という文字を覚え、使い始めたとも言えます。
それまでの日本には、独自の文字がなかったと思われます。文字で意思を疎通することなく、全て口承の方法をとっていました。したがって、この口から耳に伝えていく方法は、文字というものが存在しなかっただけに一層厳しく覚えられていたと思えます。
近世の徳川時代に入って、上古には日文とか秀真(ほつま)とかいう日本固有の文字があったと説く学者もいましたが、学説として立証できるほどの根拠は認められていません。
posted by ハラ at 18:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

顔真卿について

顔真卿(がん しんけい, 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))とは、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもあります。

琅邪臨沂(山東省)の顔氏の出身で、生まれは長安であり、『顔氏家訓』で知られる顔之推の五世の孫にも当たる。顔氏は、代々学問で知られ、また能書家が多く、世に学家と称されました。

737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に平原郡(山東省徳県)の太守に降格。

時まさに安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられました。


「祭侄文稿」(部分)台湾故宫博物院 蔵しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮西節度使李希烈に対する慰諭の特使に任じられ、そこで捕殺。

顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も壮年期に張旭に筆法を学んだという。真卿は初唐以来の流行である王羲之流の流麗な書法に反発し、「蔵鋒」の技法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書が、その特徴です。ただしその字形は当時標準とされた楷書とは異なり、叔父・顔元孫が編纂した「干録字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多く、これらの楷書は「顔体」とも呼ばれる。遺墨が多く残り、「争座位帖」や「祭姪文稿」がとりわけ有名です。
posted by ハラ at 18:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月13日

楮遂良について

楮遂良(596-658)
代表作は「雁塔聖教序」(がんとうしょうぎょうじょ)
中国の西安にある、大慈恩寺の大雁塔という塔の中にあるのでこのように呼ばれています。楮遂良が58歳の時の書です。
「雁塔聖教序」は楮遂良のなかでも最高傑作といはわれ、筆の弾力を生かした、軽快で変化に富んだ筆遣いで書かれています。
この「雁塔聖教序」の一部を紹介すると、
「なんぞ能(よ)く其の朗潤(ろうじゅん)に方(くら)べん。故に智は無累に通じ、神は未形を測るを以って六塵(りくじん)を超えて遥かに出で----」
臨書する上で重要な点は、筆遣いは蔵鋒(ぞうほう)であるということ。蔵鋒とは、起筆で穂先を包み込む用筆をいいます。前々回の、欧陽詢の書体は、楮遂良とは逆で穂先を外に表しています。これを露鋒(ろほう)といいます。
細く強い線の中に、細い太いの変化があります。起筆は蔵鋒を守り、線は穂先をきかせて書くようにすることが大切です。
posted by ハラ at 00:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月09日

虞世南(558〜638)について

虞世南【ぐせいなん】は、浙江省越州余姚【よよう】にて、南朝・陳の太子中庶であった虞茘【ぐれい】の次男として生まれ、字【あざな】を伯施【はくし】(元来、中国では「伯」は長男の意味ですが、父・虞茘の弟・虞寄【ぐき】の養子となったため、この字となったのです)、永興県公の任にあったので虞永興【ぐえいこう】とも呼ばれて、文懿【ぶんい】と諡【おくりな】されました。

 虞世南は幼い頃より、沈着冷静、向学心が強くて才気に富んでおり、兄とともに呉郡の顧野王【こやおう】に師事し、若くして学問を能くし、特に有識者との議論においては誰にもひけをとらなかったといわれています。また、後年、太宗から烈女伝を写すよう命じられた時、手元に本がなく、記憶のみによって書いたが、一字の間違いもなかったとも伝えられています。

 隋代においては煬帝からあまり重用されることがなく、起居舎人という低い位で終わりましたが、唐が興り、太宗が即位するとたちまち著作郎にとりたてられ、弘文館学士(貴族の子弟を教育する学問所の教授)を兼任することとなりました。太宗は虞世南の徳行・忠直・博学・文辞・書簡(これを虞世南の五絶という)の優れていることを褒め讃えており、生涯を通して学問や芸術を語り合う友として重く用いたといわれ、その証しとして没後は昭陵(皇帝の墓)に陪葬されたのです。また虞世南は、房玄齢【ぼうげんれい】(唐建国の功臣24人の中の一人)とともに皇帝の文翰を全てつかさどり、文学の宗師と称えられ、官僚からも尊敬を集めました。晩年は秘書省のトップである秘書監にまで昇りつめ、最後は永興県公に封せられ、81歳でその生涯を閉じたのです。学者としても名高い虞世南はその著書も多く、「北常書鈔」「帝王略論」「筆髄論」「書旨述」などを残しています。

 書は智永の指導を得て各体を能くしましたが、中でも楷書においては右に出る者なしと称されました。太宗に重用されてからは二王(王羲之・王献之)を徹底的に研究したといわれており、虞世南の書法の基は師・智永の祖先である二王の正統に根ざした南朝書法であるといっても過言ではないでしょう。張懐の「書断」に『虞世南と欧陽詢(当時、虞世南と書壇を二分した名手)の才智と力量はほとんど同格である。しかし、欧は外に筋骨を表しているのに対し、虞は内に剛柔を蔵している。各体を全てこなすという点では欧陽詢が勝っているが、本質面では虞世南の方がすぐれているといえよう』と述べており、解縉【かいしん】(明代の能書家)は虞書こそ『重華の位にありて、袗を被て瑟を鼓するごとし』とその書格の高さを絶賛しており、また、楊守敬【ようしゅけい】(清代の学者)も『天馬、空を行くがごとし』と虞の作風の優美さを激賞しています。

 虞世南はその書論「書旨述」の中で、『書は技法よりも精神性が重要である』と述べていますが、唐朝第一と称されているその書の持つ、自然にして穏健、品位の高さと風韻の豊かさはまさにこの理論よりくるものであり、この理念こそが、虞世南の人間的な温かさと気品に溢れた独自の書風を完成させる要因となったといえるでしょう。

 太宗は虞世南の人柄と博識を見込み、王羲之の真蹟をはじめとする全国より収集した天下古今の名蹟の整理と管理の全般を一任するほどの信頼を虞世南によせていたことも有名です。

 虞世南の遺作は十種を数えるほどしかありませんが、その中にあって孔子廟堂碑は虞世南の最高傑作とのほまれ高い作品です。他にも行書作品の積時帖や汝南公主墓誌銘、左脚帖などがありますが、孔子廟堂碑ほどの信憑性はなく、後世の臨本であることが多いのです。


posted by ハラ at 17:26| Comment(1) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月07日

欧陽詢(557-641)について

欧陽詢【おうようじゅん】の字は信本【しんぽん】で、湖南省臨湘【りんしょう】にて陳に仕えた広州刺史、欧陽【おうようこつ】の子として生まれましたが、詢の幼い頃、父・が謀反事件に荷担した罪で死刑になったため、詢はの友人である江総【こうそう】に育てられたのです。幼少より人並みはずれて聡明であり、博く学問に秀で、最初、隋の煬帝に仕えましたが、その待遇はあまり良いものではありませんでした。その後、もともと交際の深かった李淵(唐の高祖)が初代皇帝に即位するとともに、皇帝の側近である給事中に大抜擢されました。勅撰である「藝文類聚」100巻の編集という大仕事をこなし、太宗の代になってからは太子率更令(皇太子の養育係)に任命され(欧陽率更【おうようりっこう】の称はこれによる)、渤海男【ぼっかいなん】の爵位を与えられ、85歳で没しました。

 欧陽詢は、学者として、また教育者として多大な功績を残した人物で、弘文館学士(太宗が設立した貴族の師弟のための学校の教授)を虞世南とともに任され、多くの後進の育成にも尽力しました。しかし、欧陽詢は歴史書によると「背が低く容貌が醜かった」とされており、神通力を持つ白猿と母親の間に生まれたという設定の小説の主人公のモデルとなるほどの著名人であったと言われています。

 書においては唐代第一級の実力者として謳われており、独自の欧法と呼ばれる新書風を樹立しました。その書ははじめに王羲之・王献之を習い、さらに王羲之系の劉臓擇蠅紊Δ咾鵝曄碧明討僚饋諭砲魍悗屬海箸砲茲辰篤酊�の整斉な書風をベースとして、それに北朝の険勁な風趣が加味され、さらに自身の天賦の才とあいまって、旧来の間架結構法を全く新しい構築法に組み替えることによって、3世紀以来めまぐるしくその様相を変えていた楷書という書体の典型というものを確立したのです。

 張懐はその著書「書断」の中で、欧陽詢の書をそれぞれ飛白・楷・行・草を妙品に、大篆・小篆・章草を能品にあげており、八体全てを能くしたと評しています。ただ、現存しているものは楷・行・草・隷書しかなく、その中では、楷書が特に際立って評価が高く、欧書の代表的な作品はほとんどが楷書と言ってよいでしょう。

 欧陽詢の書丹した代表的な碑刻はかつて20数基を数えたと伝えられていますが、現在では化度寺碑、九成宮醴泉銘、温彦博碑、皇甫誕碑の4碑が楷書の代表的作品として世に残っています。そのどの碑も唐の貞観年間(627〜649)の間に建立されており、欧陽詢の晩年期に書かれたものばかりで、それだけにどの碑も各々の違う風趣や品格を有し、完成度の極めて高い名品ばかりです。

 他に書翰(手紙)として残されている行草の作では、仲尼夢奠帖や行草千字文が、また、隷書作品としては房彦謙碑などがあります。








posted by ハラ at 22:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書の歴史 -人物-

歴史を知るというのはけっこう重要なことであります。書を学ぶ上で基本的な、
よく教科書でお手本にされる、
唐の時代の欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)、楮遂良(ちょすいりょう)
という有名な3人の書家がいます。この3人を合わせて 唐の三代家 と呼ばれます。
後にもう一人、顔真卿(がんしんけい)が現れ、唐の四代家とも呼ばれたりします。
posted by ハラ at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。